1月のこと。
「カラマーゾフの兄弟」の初版本を手に取って、においをかいだ。
中のページをめくりながら「わたしの周りには「ロシア文学」に触れたことのある人はどれくらい居るんだろう。」って思った。(多分そんなに居ない)
わたしがロシア文学をやっていたことなんて、ほとんどの人が知らないんじゃないかって。
わたしも(わざと)忘れてた。
転職したりして「文学」を遮断して遠ざかって避けていた数年だった。
文学を意識的に遮断していた理由というのは色々あるんだけど、理由は大きく2つ。
恩師の退官と「文学」の名のもとで「ものすごく嫌な思いをしたこと」があったから。
本棚を整理した。左から「悪霊」の3巻までサインが無い。
「謹呈」の紙が挟んであるのにサインが無いとか、「ドストエフスキー父殺しの文学」が何で下巻しか無いのかわかんないし、当時の記憶なんて曖昧。
わたしが学生時代に「ロシア文学」、特にドストエフスキーを学んでいたのは接触事故(というかもらい事故)みたいなもので、自分から望んでやっていたわけではなくて。
わかりやすく言えば「単位が欲しいからやっていた」という感じ。マジで。
「カラマーゾフの兄弟」の新訳が出た時期で、空前のブームが巻き起こっていた頃。
そのあとロトチェンコにドはまりして、ロシアのアヴァンギャルド芸術に進みかけた。
そのままどっか別の大学に編入でもしてロシアの何かに進んでもよかったんだけど、当時教わってた恩師の突然の退官でわたしのロシア文学人生はいったん終わりを迎えた。
たまたま講演会のお知らせを見つけたから、ここいらで一旦恩師に会って、自分自身と折り合いを付けようと思って参加した。
講演会は一般的なものでとてもわかりやすく、久々に触れ合うキリル文字も懐かしかった。
自分のルーツはこれだったんだ、って。立ち止まって考えることも大事なのかもしれない。
サインには学生時代呼ばれてたロシア語の名前が書いてあったおかげで、学生時代の「あの頃」に引き戻された。
タイトルだけでゲトった「世界が終わる夢を見る」だったけど、作家との対談や批評、コラムっていうわたしが読みたいものがいくつも収録されてた。
学生時代ゼミを受けていた辻原登先生との対談もあって、こころがグッてなった。
辻原先生の作品でダントツに好きなのは「ジャスミン」。わたしが生まれ育った神戸が出てくるし。
この本は装丁も美しいから、絶対に手に取るべき。タイトルが好きすぎてブログの名前を変えてしまおうかと思った。
本棚の一番わかりやすいところにあったのがドストエフスキーの「罪と罰」だったから読みすすめてたんだけど、ここで「ロリータ」を再読しないとダメな気がして、脱線した。
ちょうど「金貸し老婆をぶっ殺す」っていうメインイベントが終わったところだったから、そっ閉じした。
「ロリータ」は結構小さな字で分厚い本っていうこともあって、かなり時間をとられてしまった。
でも、大人になってから読む「ロリータ」はそれはそれは甘美なスリラーで、文庫が刊行された時以来の再読だったんだけど、感じることがかなり違った。
巻末の解説は大江健三郎だし、かなりしっかりとした注釈もあって、新しい気付きがたくさんあった。
若島さんは「ヤバい」とか「キモい」とかかなり現代的な言葉を効果的に使っていて、これぞ読者に寄り添った翻訳やないか!ってなった。
(この後ご本人の紹介ページにパスタソースをトバします)
去年の12月、テレビをつけたら「カラマーゾフの兄弟」の100分de名著をやってた。
これもなんかのタイミングって思って毎週見るようにしてたんだけど、あんなに学んだのにまだまだ知らないことがあるんだ、って新しい気付きをたくさん得た。
「新しいことを学ぶことは、とてもいいことだ」ってパパが褒めてくれたのを思い出した。
勢い付いたから、2/28の講演会を申し込んだら、読書会だったよね~。
しかも「カラマーゾフの兄弟」の読書会…。もう一回読むとか出来るのかな…。無理やん…。
文芸誌「すばる」で連載されてる「ドストエフスキーの黒い言葉」は、回を重ねるごとに仄暗さが色が濃くなっていく。
時間があれば、行く先々の図書館でバックナンバーを探しては読んでるんだけど、何故か初回の連載が載ってる10月号がなかなか見当たらない。
「カラマーゾフの兄弟」の翻訳で有名な著者だけど、わたしが昔から好きなのは、彼のこういうたぐいのエッセイや批評、あとは学術書。
(「磔のロシア」と「大審問官スターリン」は最高OF最高)
リアルタイムで現役の文学者の文章が読めるなんて、貴重だよなあ。
というようなことがあって、改心してまた本を読むようになった。
会社への行き帰りの銀座線の中の約1時間の読書は、満員電車の気を紛らわせてくれる。
今勤めてる会社の社長が社員総会で「毎日必ず1時間は本を読むようにしてる」って言ってて、「わかる〜!」ってなった。
去年12月に光文社古典新訳文庫から刊行されたドストエフスキーの「賭博者」ってやつ。
紀伊国屋書店で講演会があって、サイン会が無し→有りになって急いでゲトった。
数年ぶりに光文社の駒井さんにも会ってお話ししたら、わたしが「アンティークコインの仕事をしてる」ってことを覚えててくださった。
「賭博者」は最初の方が困難、て訳者自身も言ってたけど、ほんとにその通りだった。
でも、老婆が登場してからめくるめく早さで最後まで読み切ることができた。
久々に「ドストエフスキーを読んだ!」っていう達成感を味わえた。中編だけどね!
一番身近な文学仲間は「地下室の手記に人生を狂わされた」って言ってた。多分良い意味。
人にはマイブームがあると思うんだけど、とりあえず出来るだけこういうアカデミックな場所に足を運ぼうと思う。マジで。
一応「会社のOLという擬態」をした毎日を送っているんだけど、アカデミックなことに触れていないせいでこころのゲージがすり減ってしまっていたのに気付いた。
置き去りにしてきたことを、回収して埋め直す毎日。
たとえば、これからあと10年あるとして、どれくらいの本を読むことが出来るんだろうっていうチャレンジ。というメモ。