わたし、みんなから「忙しそう」って言われるけど、別に全然忙しくない。
ちょっと出不精なだけ。
会社勤めをしてた時は、「休みを取ることが悪」だと思ってたし、会社の体制もそんな雰囲気だったからどんどんプライベートの時間が削がれてたのに気付かなかった。
というのも、コインの催事やオークションは土日が多いし、その振休を使うばかりで有休はほとんど使わなかった。
今は比較的ゆったりと過ごさせてもらってるから、突然のお誘いもOKしやすくなってます。
呼んでくれたらどこでも行くぜ。
この前、親と食事をした帰りに実家に寄った時、ママが「京都に紅葉を見に行くの」っていうから「いいなー。誘ってよ」って言ったら「誘ったし!忙しいって言うから(激怒)」って言われて、マジほんとごめんねってなった。
親との時間も大事にしなくちゃいけないなって思った。
15歳の冬、ママと手をつないで真冬のマンハッタンに行ったのは一生忘れないし。
「じゃぁ、どこ行こうか」ってことで、世界遺産になった「隠れキリシタン」にゆかりのあるところに行こうとしたら、色んなとろこに点在してて、今すぐ決めるのは難しかった。
どこかにアートワーク見に行ったりしたくないの?ってことで「金沢の21世紀美術館」に行こうと思ってホテルをチェックしたら、兼六園とかお城とかその辺一帯に集まってることがわかったから、予約ボタンを押した。
いざ陸路を調べてみたら、出発が関西の方しかなくて、調べたら東京から新幹線でダイレクトに行けないことがわかった。
(このあと友達と話していて、東京発のものがあることがわかった)
突然振り出しに戻ったけど、ノリで「青森の三沢にある寺山修司記念館に行きたい」って言ったら「OKOK!」ってことで即決。
こちらの副館長は渋谷のポスターハリスギャラリーのオーナーで、昔から知ってる方だった。
今はギャラリーは移転したけど、渋谷のラブホの手前の雑居ビルにあった時から通ってた。
たまたまわたしがモデルをした写真集のリリースパーティーが移転したポスターハリスギャラリーでやることになって、足を運んだ時に改めてご挨拶をした。
その時にたまたま招待状を頂いたのが、今回のきっかけになった。
寺山修司記念館に行くということはこちらの記事でも書いてるように、毎年やれないことのひとつが叶った。
ありがとうママ。
というのも、学生の頃に勢いで飛行機に乗って行ったら休館日だったからすぐ引き返してきた。
それがトラウマで、何年も足が向かなかった。
ANAをスーパーフライヤーズに解脱したからといって、JAL派になったわけじゃないからね!
でも、ゴールドカードのおかげでカードラウンジに行けた。
三沢には米軍基地があるおかげか、小さな空港がある。
そこに就航してるのはJALだけというわけ。(っていうか言い訳)
三沢の市街地は青々としていた。
新幹線だと遠いし、青森空港も少し距離があるから三沢空港から行くことにして正解だった。
泊まったのは星野リゾートの「青森屋」さん。
手厚いホスピタリティとおいしいご飯、そして温泉という素晴らしいコンボは申し分がなかった。
時間によって「りんごジュースが出る蛇口」があって、りんご好きのわたしにとっては天国だった。
お風呂あがりに冷たいりんごジュースは、マジで格別だった。
お馬さんと触れ合うこともできた。
「りんご馬車」っていう予約制のアクティビティがあって、青いリンゴと赤いリンゴの食べ比べ(今はコロナ対策のため持ち帰り)と、公園一周してくれる。
その敷地内も昔は材木屋さんで、寺山修司が幼い頃遊んでたらしい。
タクシーがついた途端、感激した。
いつも憧れていた”あのオブジェ”と写真を撮る。
このモチーフのピンバッチを貰ったことがある。
有名な玄関を開けて、いよいよテラヤマワールドに踏み入れる。
「書を捨てよ50周年」のイベントがちょうど終わったばかりで、副館長とはすれ違ってしまったのは、本当に残念だった。
招待券を出した時、なんとなく説明をしたんだけど、記念館のみなさまには本当に良くして頂いた。
なんとも恐縮してしまう顔ハメ。
撮ってくれたママが「馴染んでるわよ~」って言ってくれた。
うれぴよ。
宇野さんかな?なんだろ。等身大のオブジェ。
近寄ってみても誰も怒らないし、とても良い環境で鑑賞出来た。
「田園に死す」のやつだ!って声が出てしまった。
こんなに状態がいいものなんて、残ってるんだなあって。
ここにあるもの全てに、ずっと長い間憧れてた。
それは手の届きそうなところにずっとあったのに、知らないふりをしてきた。
寺山修司のことを知ったのは、多分BURSTの暗黒舞踊からの系譜だと思うんだけど、知っておいて良かった。
わたしを作るアイデンティティの中に確実に埋め込まれてる
。
天井桟敷のチケット。
これを当時見ることができた人はどれだけラッキーだったんだろう。
この前うちのすぐ裏で唐組のテント公演があったけど、すぐに売り切れて身に行けなかった。
わたしの背の高さぐらいある、本のオブジェ。
もう、これだけで興奮した。
この暗い中を、懐中電灯で照らしながら引き出しの中を探っていく。
ママも一つずつ見て回っていて、この親にしてわたしが在るんだと思った。
寺山の声を聴きながら、あの憧れの時代を味わった。
記念館のそばには何もなくて、タクシーの運転手さんに聞いたら「えきそば食べていったら?」っておすすめされた。
三沢駅ビルはどうやら新しくなったみたい。
ママは一番人気のおそば、わたしは肉そばにした。
麺はやわらかめ、少し甘めのスープでおいしかった。
翌日、チェックアウトをしてから三沢駅前にある「きらく亭」さんへ。
ここは寺山修司の叔父さんが「寺山食堂」を営んでた場所なんだって。
町中に「寺山食堂」の旗があって、歩いているだけで楽しかった。
「ばら焼き定食」を頂いた。お米が吸い込まれた。
三沢は「ばら焼き」が有名だっていうからホテルで食べれると思ったらなかなか出て来なくて残念だったから、ここで食べられてよかった。
「遠くへ行けるのは、天才だけだ。」
この言葉がすげー刺さった。
雨が降ってきたし、この日は記念碑を見に行かなかった。
外には野外劇場もあって、季節が良くなると舞台の公演があったりするみたい。
昔付き合ってた人が三沢の出身だったんだけど、街並みを見てようやくその人の仄暗さが理解できた。
その物寂しさは、街特有の息遣いだった。
青春に、また一つ区切りをつけることができた。
次は航空科学館に行きたいから、また三沢に行かなくちゃ。
その後少ししてから、渋谷のシアターコクーンに「泥人魚」を見に行った。
それは泥水の中の切ない光を見たような、久々に「舞台を見た!」という息切れするものだった。
突然誘ったのにも関わらず一緒に行ってくれたうちのオランダ人とお花屋さんに感謝。
これからも、そういった人たちと美しい時間を共にしたい。