150BPM

ものすごいサブカルですが、あまり気付かれません。

チバユウスケがいなくなった話と20年前のゼロ年代に聴いていた音楽の話

チバがお星様になってしまった。

あの日からずっと、悲しみが消えなくて困ってる。

悲しくて悲しくて悲しくて悲しくて、本当に困る。

人生で1番聞いたのはミッシェル・ガン・エレファント

 

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携帯のメールアドレスも「tmge」って入れてたのは、いにしえの友人なら知ってるんじゃなかろうか。

 

チバのニュースを見た時は出社する準備をしていたんだけど、呼吸が出来なくなった。

血の気が引いて、気を失いそうになりながら恵比寿駅で乗り換えをした。

 

そんなこと初めてだった。あの人が死んだ時も、あの人が突然この世から居なくなった時もそこまで打撃は無かった。

周りから一斉に連絡が来たし、わたしも一斉に連絡をした。

うちのオランダ人に電話をしたら車の運転中で、事故りそうになりながら「涙が止まらない。なんでだろう」って言ってた。

 

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「寒がりのパンクス 吐く息はダイヤモンド チャイナドレスのあの子に一目惚れ

ずっと彼女と二人でいれたら それだけでいいと言って笑った」

 

思い出すのは21年前の話。

2003年前後はわたしの人生にとって、今思い出しても最も最悪だった。

ナンバーガールが解散をした2002年の翌年で、ミッシェルが解散した年。

初めて自分から好きになって付き合った彼氏は2004年に自死を遂げ、最悪な10代の幕開けだった。

チバの訃報に触れて、このあたりの記憶がフラッシュバックした。ゲロ吐きそう。

 

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わたしの人生を変えた2002年の映画『24アワー・パーティ・ピープル』を16歳の時に見て、Joy DivisionNew Orderを知った。

そして「パーティ」や「レイヴ」の存在を知った。

音楽って、自由なんだということがわかった。

 

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この前NYに行く時にJOY DIVISIONのロンTを着ていたら、羽田空港で外国人に「Oh my god?」って言われたから「I love it」ってした。

 

親に内緒で京都の盆地で朝までやったレイヴに行って、朝日を見た。

それから旅先で、日の出を見るのがクセになってしまった。

その時連れてってくれた人は京都のプリンツのパーティで知り合った人だったんだけど、今何してるんだろう。

How's it going?相変わらずオシャレな音楽を聴いてるのかな。

 

トランスやテクノを聴きまくって居た頃、ミッシェルガンエレファントに出会う。

ジャリジャリした音が好きだった。

 

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「夜をゆく なめつくした ドロップの気持ち」

 

ミッシェルの曲が惜しげもなく使われてる2002年の映画「青い春」に出てくる全員が大好き。

 

2003年のわたしは17歳。花もときめく17歳。

ミッシェルガンエレファントばっかり聞いて、付き合う彼氏はボーカルかグレッチのギター、極太のベースかドラム。

私立の共学に通いながら、髪の毛を伸ばしてモッズよろしくスカートは短めのハイソックスでギャルを極めてた。

その時に劇的に知り合った(知り合ってしまった)のが、芸大の油絵に通う4つ上の人だった。

 

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「ああ制服の少女よ 気が狂いそうな青空と 朝日のせいで君は眩しい」

2番目に聞いたバンドは「福岡市博多区からやってきました」ナンバーガールだと思う。

この曲をかけながら制服でライブハウスに通ってたわたしに「ほら、君」ってDJしてたね。

 

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「ピンポン」をDVDで何度も一緒に見て、だいすきになった。

だから「Peco」っていうあだ名なんだけど。だから大事にしてるんだけど。

このベースラインが、最高。今もたまにチラっと見て思うことは「あの頃みんな生きてた」ってこと。

しあわせだった。

 

アメ村のタワレコブリットポップとガレージを漁って、PIPE69とベアーズに通ってた。

暇があったら本屋とパンクショップに出入りをしてた。

そんな中、あっけなく見事に彼に自死を遂げられてしまい、人生のどん底を味わった。

 

この時に、わたしは一度死んでるんだと思う。

 

あの時の絶望に比べたら、その後の人生のことは別にどうでも良いよね。

それから、人への距離を取るようになってしまった。

築き上げてきた人間関係が無くなるのがめんどくさいから。考えたくもない。

他人への興味も無くなった。

今わたしの周りに居る人と居てくれる人は、その高いハードルを無理やり超えてきて、わたしのこころも抱きしめてくれるような人だけ。

もしわたしの喜怒哀楽を知っているとしたら、ラッキーだと思う。

 

当時、死体写真家の釣崎さんに会った時に「しにたい」って言ったら「死ぬな!!!」って怒られたりした。

この前釣さんと飲んでてその話になって、すごい恥ずかしかった。

でも今わたしは生きていて、そんな昔の話を笑い話にできるんだったらオールオッケーなんじゃないかな。

 

海外に行ったりして、美しい景色や美術品を見て「生きててよかった」って言っちゃうのは、本当に心の底から「生きててよかった」って思えるから。

 

彼のおばあさまから渡された遺書”のようなもの”には「君には悪いことをしたと思ってる」ってしたためてあって、これはわたしの心の底に深く刺さったままになってる。

人生でもう一度言われたのが去年の夏の終わりのことなんだけど、叙情的な人ほど、この言葉が似合うよね。

その時は「そんなことないです。ほんとうに。そんなことおっしゃらないで」って必死になってしまった。

なんで、なんでそんなこと言うの、言えるのって辛くなってしまった。

わたしは何とも思ってないのに。

 

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「太陽をつかんでしまった」を聞いた瞬間、「もしかしてこのバンド終わる?」と嫌な予感がした。

その予感の通り、ミッシェルは解散した。

 

そして何度も何度もバンドマンと壮絶な恋愛模様を繰り広げ、「もうバンドマンとは付き合わない」と泣きながらりょーこの実家の部屋に油彩ペンで書いた。

「恋愛」なんて呼べたのかどうかもわからない、稚拙なものだったと思う。

その後はDJとかおもちゃ屋と付き合ったり、遊べる本屋の店員とか劇団の団長と付き合ったりしたけど、やっぱり懲りずにバンドマンと付き合った。

「わたしにラブソングは歌うな」というめんどくさい彼女だった。

ジョン・レノンオノ・ヨーコにはなりたくなかったから。

 

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わたしが大阪を離れた2005年にはスーパーカーも活動をやめた。

 

そして今の彼、うちのオランダ人というゴリゴリのハードコアのボーカルとベースをやってる人と今も一緒にいる。

結局、バンドマンと一緒にいるんだな、ってマジで思う。

 

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別にこんなこと残さなくてもいいんだけど、あなたが死んでから20年が経ちます。

ナンバーガールが再結成したのに、また解散しました。

止まってしまったあなたの歳をとうに越し、東京に根を下ろしました。

あなたの安らかな眠りを祈ったことはありません。

当時の幼いわたしは、そんなことを考える余裕がないまま時が過ぎてしまったからです。

去年、桜桃忌に久しぶりに1人で行きました。風がとても強かったです。

あなたがわたしに遺した、遺してしまった「人間失格」をカバンに入れて行きました。

太宰のお墓の周りには、偲ぶ人がたくさんいました。

お参りに来ている人に話しかけられましたが、無視して帰りました。

あなたの思い出を、穢して欲しくなかったから。

お慕いする教授からは「玉川上水にも行けばよかったのに」なんて、酷なことを言われました。入水したらどうするの。

去年、大阪に出張に行った時にあなたのお墓まで行きました。赤い観覧車が見えました。

わたしはこれからも、この東京で生きていきます。

人との距離がいまだによくわからないまま、消えない哀しみを抱きしめながら、生きていきます。